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「人の話を聞かない」という生き方

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うつ病に関することを書いているサイトですが、「人の意見を聞き過ぎて、心を病む人」もいるかと思い、人の話を聞くメリット&デメリットについて考えてみました。

「人の話を聞きなさい」の裏側

「人の話を聞きなさい」と教わることはあっても、「人の話を聞くな」とは言われません。
話し手にとっては、聞いてもらわないと意味が無いので、「聞くな」とは言えないからです。

聞いてほしいから、聞けと教える。
聞いてもらわないと、いろんなことが伝えられず、今後の生活に支障が出る。
確かに、そうでしょう。

特に子どもは知識や経験が不足しているので、それを補って社会に適合させるには、“人の話を聞く子”に育てるのがベター。
だから、「言うことを聞きなさい」としつけられ、「人の話は聞くべきだ」と思い込みます。

世の中には、耳を貸すべきではない意見もありますが、まずは“聞くこと”から始めないといけない。でも、聞くべきではない意見の存在は無視できません。

話し手の利益

話を聞いてほしいから聞けと言い、書いたものを読んでほしいから読書は大事と書く。そこには、情報を発信する側の都合があります。

情報発信者にとって 伝えた方が好ましいから、聞いたり読ませたりしたい。それだけのこと。現に、知られるとマズいことは口にしません。

もちろん、受け手にとって有意義な情報であれば、「聞いてよかった」「読んでよかった」となるでしょう。

しかし、教えられた「人の話を聞きなさい」「読書は大事」という言葉のまま、何でもかんでも受け入れるのは違います。

人間は過ちを犯すもの。正しいと思って話していても、間違っていることは往々にしてあるでしょう。
さらには、自分の話を聞かせることで、その人を都合よく動かそうとする人もいます。

小さい頃は「みんな仲良く」と教えられ、いつの間にか「付き合う人間は選べ」と言われる。
それと同じように、「人の話を聞きなさい」から、「聞くべき話か、判断しなさい」に変化する必要があるのではないでしょうか。
性善説に基づく建前と、現実が違うように。

「何を当たり前のことを」という人もいれば、礼儀として「人の話は最後まで聞くもの」という人がいるでしょう。
心配になるのは後者のタイプで、こういった考えの人が変なのに捕まり、延々と話を聞かされるのを見るのは、辛いものがあります。

あなたの為という嘘

延々と話を聞かせる厄介な人が好む言葉に、「お前の為を思って言っているんだ」といった類の言葉があります。
いわゆる説教の常套句ですが、実際には「お前の為」を思っていません。

そう言えてしまう理由は、2つあります。

1つは心理的リアクタンスです。
本来、人は自分で決めたいと思っています。この気持ちを誰かに阻害され、行動を強制されると、自分にとってプラスの提案であっても、無意識に反発してしまう傾向にあるようです。これが心理的リアクタンス。
つまり、「XXしなさい。お前の為を思って(以下略)」と言うと、XXしようと思っていても、相手の思い通りになりたくないと反発してしまうのです。

「XXしなさい」と言う側と、言われる側の関係性にもよるでしょうが、「お前の為を」なんて言う人の意見は聞きたくないもの。
結局のところ、相手が選ぼうとしている事柄に、余計なバイアスをかける発言でしかないのです。

それに加え、人から言われてしたことと、自分で選んでしたことでは、悪い結果になった際の後悔の度合いが違うはず。
そういう面から言っても、余計な一言でしかないのです。

もう1つは、説教をしている人の脳内で、快楽物質が出ているという事実。これは自慢話にも言えることです。
話すことで快楽物質が出るのであれば、良い気分を味わう為の行為と捉えられます。
言うなれば、話し手が気持ちよくなるための自慰に、付き合わされているようなもの。

もし、本当に相手の為を思うのであれば、その人のことを理解しているのが大前提。知らない人の為を思うことは、できませんからね。
だから、相手を理解していない人が言う「お前の為」は、話し手の都合でしかないと言えるでしょう。

話し手と聞き手の関係性

前項で言う側と言われる側の関係性と書きましたが、「人の話を聞きなさい」と言われて育つと、そこに話し手と聞き手の関係性を結び付けてしまう人もいるでしょう。

話し手は教える側、聞き手は教わる側。
ゆえに、聞き手側の方が未熟であるという認識を持つ。

「話を聞きなさい」と言われると、聞き手であることを強要された子ども時代を思い出し、自分の立場が子どもの頃に戻った気になる。
子どもじゃないと思いたい人ほど、相手から下に見られたくない人ほど、反発してしまうこともあるでしょう。

すべての知識や経験が相手よりも勝っていることはないので、どんな人からでも学べることはあるはず。
その辺を理解せず、自分は常に教える側だと思っている人ほど、始末に負えないものです。

聞くべき相手の見分け方

誰かが「話を聞け」と言ってきたとします。
その人は、あなたの話を聞いてくれるでしょうか。

答えがノーなら、たぶん聞くべき相手ではありません。
人に「話を聞け」と言っておきながら、自分は聞けないのであれば、その「聞け」は「従え」と訳してもいいでしょう。

「人の話を聞け」ではなく、「私に従え」と言っているのです。
自分の主張を通したいだけの人は、あなたの行動に理由があるなんて、想像すらしていないかもしれません。
だから、何の迷いもなく「従え」と言えるのです。

根拠なき断言

何かを断言されると、その語気の強さに「この人の意見なら、間違いない」と思いがち。
でも、よく考えてみてください。
いろんな可能性を考えられる人なら、そうそう簡単に断言しないのでは ないでしょうか。

「Bの可能性もあるが、Aと判断するのが妥当だから、その対処法を取ろう」
「これはAだ。だから、Aの対処法を行え」

何を知っているかで、言い方も変わってくるはず。
事例Aしか知らない人が言う場合と、事例A・B・Cを知っている人が言う場合では、言葉の背景にある知識量が違いますからね。

他のことを知らないからAだと言っている。
これほど、聞かなくていい意見もないでしょう。

スポーツは野球しか知らない人が、「野球こそが最高のスポーツ」と言うのと、他の競技も知っている人が言うのでは、違うという話です。

経験論がアテにならない理由

人生には、AとBという選択肢があるとします。
Aを選んだ人が「幸せになりたいならAだ」と言い、Bを選んだことで不幸になった人の話をしていたら、どう思うでしょうか。

「自分もAを選ぼう」
「Bを選んで、幸せになった人はいないの?」
「不幸になった人は、Aを選べば違ったの?」

感想は様々でしょうが、両方の選択肢を選び、比較できないことがミソです。
同じ人間はいませんので、Aを選んだOさん、Bを選んだOさんは、同時に存在できません。Aを選んだMさん、Bを選んだNさんを見比べても、違う人なので比較とは言いづらい。
同じ条件で比べない限り、どっちがいいとは言えないのです。

なので、話し手の人生では“良かった選択”であっても、聞き手の人生でも“良い選択”とは言えません。同じ人間じゃないですし、取り巻く環境も能力も違うので、当然のこと。

特に、年齢差がある場合は顕著です。話し手が過ごしてきた50年と、これから聞き手が過ごす50年では違いすぎるというもの。参考にならない点が多くても、何ら不思議はありません。

それでも、人は自分の選択を人にも勧めたがります。
そこにあるのは、自分が頑張ってきたことを「無駄だった」と思いたくない感情。
多くの人は、やってきたことには価値がある、存在には意味があると思いたいでしょうから、自分が選んだ選択肢を正当化しようとします。

結果、自分がやってきたことを 他者にもやらせようとするのです。
そのよくない例が、しなくていい苦労を強いること。もっと効率的に処理できる方法ができても、かつての非効率な手法を強要して無駄に時間を使わせる。
つまらない自尊心がなせる業です。

持たざる者の主張

「お金よりも、大事なものがある」

そんな言葉を金持ちが言う場合と、お金に困っている人が言う場合では、背景にある事情が違います。
嫌な言い方をしますが、充分に持っていないものの価値は、理解しきれていません。

お金に困っている人にとって、それは入っては出ていく存在でしょう。いわゆる“お金を働かせる”行為には無縁かもしれません。
お金持ちにとって、それは結果でしかないのでしょう。お金を得るために必要だった要素こそ、大事だと考えている人もいました。

同じ言葉であっても、それを言っている人によって、意味は違ってきます。
「大学なんて、行っても意味がない」と言っている人がいたとして、その人が学歴が不要な世界で活躍しているから言えたことなのか、大卒の使えない部下を持ったから言っているのかで、捉え方は違ってくるでしょう。
逆に、学歴で優遇された人は、「なんだかんだで、学歴社会」という捉え方をするかもしれません。
要は、その人の人生で必要だったかどうか。選んだ選択肢で大きく影響します。

どっちの意見を聞くべきか迷うようでしたら、目指している人間像に近い人の意見を聞くのをオススメします。

愚者の意見を取り入れたところで、なれるのは愚者だけ。
なぜなら、その人は その考え方のお陰で、愚者になったのだから。
なりたくない存在の意見は聞いても仕方ない。

「立派な人間は、XXをすべきだ」と言われたところで、その人が立派でないのなら、XXをする理由はありません。言っている本人が、XXという行為と立派さが無関係だと証明しているからです。

持たざる者の不要論を聞いたら、「だから、あなたは持っていないんですね」くらいの気持ちでスルーしてもいいでしょう。
持たざる者の哲学は、彼らが現状を満足する為の言い訳でしかない。そんな気がします。

この手の話をすると、「どっちが大事」的な発想で、お金と愛、恋人と仕事、といった二択を迫る人がいますが、それはナンセンスだと思っています。
「右足と左足、どっちが大事?」と訊くくらい、つまらない質問だからです。

多様性の価値

とはいえ、時には愚者の意見を聞くのも悪くありません。

仮に、方向性の概念が「左」しかなかったとします。
すると、方向の指示は「左」しかなくなり、最良の表現であっても「プラス左1m」とか「マイナス左1m」といった具合になるでしょう。
方向の前後に至っては、表現の仕様がありません。

左の反対である右があるから、どのくらい左かわかるというもの。
前や後ろといった概念を知って初めて、どのくらい前後なのかがわかります。

同じように、様々な意見を聞くことで、どのくらいの位置にいる人の発言なのか。それを相対的に把握できるでしょう。

ただ、100人から100通りのアドバイスを受けたところで、すべてを実行することはできません。アドバイスの内容に矛盾が生じるからです。
Aさんの言うことを実行すると、相反するBさんの意見は無視することになる。その時点で、誰かの意見は聞いていないのと同じ。
「人の話を聞かない」と思われても仕方ないでしょう。

また、いくら多様性は大事だからと言っても、聞くのはタダじゃありません。
貴重な時間を“聞く”ことにあてているので、そのことは忘れずにいたいもの。

まとめ

こんなことを書いたのは、多くの人の意見を取り入れようとして、都合のいい存在に成り下がっていたからです。

人間関係を円滑にする為に、人の話を聞くことが重要になることもあるでしょう。
でも、実際には「言っても聞かない人」がいるお陰で、「人の話を聞く人」が その人の分までカバーすることが、少なくありませんでした。

「あの人は言っても聞かないから、その分をカバーしないと」

人の話を聞く分、自分の都合は後回しで、相手の都合を聞く羽目に……。
そんな理不尽さに立ち向かう処世術として、「人の話を聞かない」を提案してみたい気持ちになり、こんな文章を書いた次第です。

冒頭で、人の話を聞くメリット&デメリットと書きましたが、具体的に「これがメリット」「こっちはデメリット」と書き出していないのは、そこだけ読まれても困ると思ったからです。
全体的な流れとして感じてもらいたいと思って、このような感じにしています。

  • B!